時代が明治から大正、そして昭和へと進む中、軍国主義の台頭は鉄道サービスにも軍事最優先をせまり、駅弁業者は苦難の時代を迎える。満州事変、日中戦争、そして太平洋戦争へと突入し、駅弁の最大の得意先は軍となり、「軍隊弁当(軍弁)」が登場。食糧統制が加速していくと食材は払底したが、各業者は知恵を絞り、なんとか供食を成立させようと「代用食弁当」を作った。飢えと渇望の時代、それでも業者たちは駅弁の灯をともし続けた。

日本鉄道構内営業中央会・沼本忠次事務局長が語る駅弁の歴史

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日本初の駅弁はにぎり飯…旅情を彩る名脇役の誕生秘話

明治27(1894)年に日清戦争、同37(1904)年に日露戦争が起こると、鉄道は旅客を運ぶ交通手段から、軍事物資と兵隊を運ぶ輸送手段へと変わっていった。軍の主要施設は交通の要綱である主要駅近くに置かれ、多くの部隊が戦地に向けて鉄道で出兵していった。

それに伴い、駅弁業者には軍部から弁当の注文が殺到、「軍隊弁当(軍弁)」が生まれ、太平洋戦争終戦まで昼夜問わず調整に追われることになる。

(画像提供:一般社団法人 日本鉄道構内営業中央会)

太平洋戦争時に陸軍が作成した駅使用に関する文書には、当該駅に近い駅弁業者の製造能力や供給範囲が網羅されていた。軍弁用のコメ、調味料、缶詰、魚などは当初調達されていたが、戦況が悪化していく中、手に入れることが厳しくなっていく。

残念ながら、軍弁の中身は不明のままだ。軍事機密文書として、終戦前に処分されていたと思われる。しかし、戦況悪化に伴い、だんだんと質素な内容になっていったと考えられる。軍弁を経験したある駅弁業者は、「もっとたくさんのおかずのある弁当を持たせてやりたかった」と振り返る。出征兵士の最期の食事–多くの若者が軍用列車の中で軍弁を食べ、そして故郷に戻ることはなかった。

庶民を救った「代用食弁当」

昭和13(1938)年、国家総動員法が制定され、生活のすべてを戦争へささげる総力戦が名実ともに具現化、鉄道も戦時ダイヤとなった。このころの駅弁の掛け紙を見ると、「国民精神総動員」「戦ひ抜かう大東亜戦」など、戦意発揚の標語が並ぶ。

翌年の米穀配給統制法で業務用特配は打ち切られ、駅弁業者は苦難の時代に突入する。昭和18(1943)~19(1944)年に食糧事情の悪化に拍車がかかると、逆に多くの人が「駅に行けば何かが手に入る」と考え、駅弁・駅食堂・列車食堂に殺到した。

戦時下の掛紙には、戦意高揚の標語が並んだ(画像提供:一般社団法人 日本鉄道構内営業中央会)

しかし、食材の不足は駅弁業者でも同じ。そこでさまざまな工夫をこらし、「代用食弁当」を発売した。例えば、配給のイモを2~3個入れた「芋弁当」、ニンジンや昆布などを混ぜた「鉄道パン」、うどんや野菜を細かく刻んで入れた「混麺弁当」や「混米弁当」などだ。今では想像もつかない超粗食だが、「食べられるだけまし」との思いから、庶民の飢餓を救ったことも事実である。

終戦を迎え、軍は解体。軍弁の歴史は終わりを告げる。戦後も物資がない時代が続いたが、駅弁業者はおかずだけの弁当を作るなど、何とか事業を継続した。そして昭和21(1946)年、民主的機関として「鉄道業務中央会」が305事業者で設立。雌伏の時を経て、駅弁は高度経済成長期に向けて歩みを進めていく。

◇日本食糧新聞の2017年12月13日号の記事を転載しました。