2017年、JRが発足して30周年を迎えた。明治5(1872)年の鉄道開業から145年がたち、近年は列車高速化や駅ナカ・駅チカの充実など、鉄道サービスにおける食の選択肢の幅は広がってきた。しかし、130年を超える歴史を持つ駅弁は、全国各地ならではの伝統の味や旬の食材を旅情とともに提供する「小箱のワンダーランド」として、日本独自の食文化を形成してきた。駅弁の歴史は、鉄道とそのサービスの発展とともに、調理技術、容器、包装資材、日本人のライフスタイルの変化などを映し出す鏡であってきた。

日本鉄道構内営業中央会・沼本忠次事務局長が語る駅弁の歴史

明治が始まり150年を迎える今、JRの旅客鉄道会社で駅弁販売などの旅客構内営業を行う企業で構成する日本鉄道構内営業中央会の沼本忠次事務局長とともに、駅弁の進化と発展の歴史を振り返る。

1872年の新橋~横浜間での開通以降、大阪~神戸間、京都~大阪間が続いて開業し、その後徐々に線路が全国へと延伸していった。鉄道ネットワークが広がるとともに、旅客の乗車時間も伸びた。1889年に東海道本線が完成したが、新橋~神戸までの所要時間は20時間。現在のJR東北本線などにつながる上野~青森間は26時間もかかった。このように列車に長時間乗車することで、旅客サービスの必要性が高まり、「旅情を彩る名脇役」として登場したのが駅弁だ。

駅弁の誕生には諸説あるが、一般的には1885年に宇都宮の旅館白木屋が発祥とされている。日本鉄道の上野~宇都宮間(現JR東北本線)が開通したころ、宇都宮駅は町外れの野原のど真ん中にあり、駅と町を結ぶ道路さえなかった。

そこで白木屋の経営者だった斉藤嘉平は、黒ごまをまぶしたにぎり飯2個にたくあん2切れを添えて竹の皮に包み、1個5銭で販売した。当時はかけそばが1杯1銭、コメ1升が5銭の時代。駅弁はかなりのぜいたく品だったのかもしれない。

駅弁の初めのころはにぎり飯が主流だったが、1889年にはご飯とおかずを詰めた幕の内弁当が山陽鉄道(現JR山陽本線)姫路駅で初めて登場。これは姫路駅の近くで茶店「ひさご」を開いていた竹田木八が始めたもので、13種類のおかずを上折に、白飯を下折に入れた二重の折詰にして、12銭で販売した。

現在も、ひさごをルーツに持つまねき食品が「経木入り『元祖』幕の内弁当」として販売している。

その後鉄道網もさらに広がり、販売する駅も増加。駅弁の形も、幕の内弁当のような「普通弁当」に加え、地域ならではの食材を生かした「特殊弁当」も登場してくる。明治30年代には静岡駅で「鯛めし」、宮島駅で「あなごめし」、土浦駅で「鰻丼」などが相次いで登場。

洋食メニューでも大船駅で「鎌倉ハムサンドウヰッチ」が販売されるなど、かつては人前でものを食べる習慣があまり定着していなかった日本人の食・ライフスタイルにも変化を加えていった。

時代が20世紀に突入しようとする中、日清戦争、日露戦争を経て、日本は戦争の時代へと進む。主要駅には軍事拠点が整備され、駅弁は「軍弁」としてさらなる発展を遂げることになる。

◇日本食糧新聞の2017年11月15日号の記事を転載しました。